三浦環(エール双浦環モデル)とは?代表作の動画をチェック!

NHK朝ドラエール」で柴咲コウさんが演じている双浦環

モデルになったのは世界的オペラ歌手の三浦環さん。

明治後期から昭和初期に活躍しました。

日本人初のオペラ歌手で、あの時代に女性が活躍するというだけで、三浦さんがどれだけすごい人がわかりますね。

三浦環とはどんな人だったのか、代表曲などをご紹介します。

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三浦環プロフィール

  • 読み方:みうらたまき
  • 出生名:柴田環
  • 生年月日: 1884年2月22日
  • 出身地:東京府東京市京橋区

現在の東京都中央区内に生まれました。

公証人の柴田孟甫(本名・熊太郎)を父に持ち、幼少のころから日本舞踊や長唄や箏(琴のような楽器)を習っていました。

東京女学館から東京音楽学校へ進学。

ピアノを瀧廉太郎に、声楽を幸田延にそれぞれ師事、更にはヴァイオリンもアウグスト・ユンケルについて学びました。

実は学校入学前に陸軍三等軍医正、藤井善一と結婚。

1903年に日本人による初のオペラの舞台に出演。

学校を卒業し、研究科(大学院のようなもの)に残り声楽を教えるように。

その後は助教授になります。

作曲家となる山田耕筰などを指導しました。

藤井善一とは1907年に離婚。

柴田家の養子で医師(東京帝国大学医学部助手を経てシンガポールの三井ゴム園病院院長)の三浦政太郎と1913年に再婚。

政太郎とともにドイツへ留学。

第一次世界大戦の戦火を逃れるためイギリスへ移動しました。

そのままイギリスでデビューし成功を収め、アメリカへ。

ボストン、ニューヨーク、サンフランシスコなどの劇場で舞台に立ちます。

メトロポリタン歌劇場に日本人で初めて立った人でもあるのです。

1922年に帰国するまで、ヨーロッパ中の舞台に立ちました。

帰国してからは長崎で暮らし、日本でもレコードが大ヒット。

1924年に再びアメリカへ。

サン・カルロ・オペラ団に出演。

その後はイタリアに移り「蝶々夫人」の出演2000回を達成。

1935年に永住帰国。

日本語詞でオペラ上演などを行っていました。

第二次世界大戦が激化したため山梨県に疎開。

疎開先ではピアノを弾いたり、子どもたちに歌を教えたりしていたそうです。

1946年頃から膀胱がんのため1人では歩けない状態に。

東京帝国大学(現・東京大学)付属病院に入院するも、その年の5月26日に62歳で亡くなりました

明治生まれの女性なのに、今でいう大学を出て海外で活躍するという、現代の女性でもなかなかできない偉業を達成していますよね。

離婚と再婚しているのも、ちょっと現代人っぽい(笑)

第一次世界大戦中のイギリスやアメリカで活動するというのも、勇気がいることだったと思います。

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代表作の動画は?

イタリアで2000回もの公演を行った蝶々夫人が代表作と言えるでしょう。

実は古関裕而さんの作った曲も歌っています。

ドラマでも歌っていた「船頭可愛や」

どれも戦前なんですよね。

録音技術が良くない時代なので、歌の迫力が落ちますが、実際に聴いたらすごいんだろうなと思います。

エールの双浦環はどうなる?

三浦さんをモデルにしたオペラ歌手、双浦環がエールに登場します。

のちに古山裕一の妻となる関内音が、幼いころに教会に行ったとき、環の歌を聴き歌手になることを志します。

音は環と東京音楽学校で再会。

環を演じる柴咲コウさんは、声楽の訓練を受けて撮影に挑んだそうです。

(エール出演者の歌は吹き替えではなく、すべて俳優・女優が実際に歌っているそうです。)

裕一が作曲した「船頭可愛や」を歌い大ヒットさせます。

ドラマでは下駄屋の娘が歌ったら売れなかったとありましたが、実際はそんなことなかったようです。

双浦環の功績ということになっていましたけどね。

史実ではすでにヒットした「船頭可愛や」を三浦環が歌って、そちらもヒットしたのです。

双浦と小山田の関係は演者二人の年齢のせいで、小山田のほうが立場が上になっています。

モデルになった山田耕筰と三浦環はドラマとは逆の立場ですから、青レーベルで流行歌を出すかでモメてないはず。

まとめ

朝ドラ「エール」に登場する双浦環のモデル、三浦環さん。

明治後期から昭和初期に活躍したオペラ歌手。

アメリカやヨーロッパで多くのオペラの舞台を踏みます。

代表作は「蝶々夫人」古関裕而さんの曲も歌っていました。

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